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顔のない美女図鑑

顔が写っていないのに美女としか思えない写真の数々

鹿

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死体ではありません。

死体ではありません。

死体ではありません。

死体ではありません。

死体ではありません。

 

と繰り返していると、この体が次第に死体であるように見えてくる。

 

死体です。

死体です。

死体です。

死体です。

死体です。

 

正反対のことを書いてみても、やはり死体であるように見えてくる。

 

「言葉の意味を逆にしても、伝わる意味は同じである」

という例として、何かの参考にはなるかもしれない。

 

ところで以前、死体の写真集を買って読んだ(というか眺めた)ことがあった。

 

死体のある光景―写真集〈デス・シーン〉

死体のある光景―写真集〈デス・シーン〉

 

 

この本には、アメリカの刑事によって収集された死体の写真が収められている。

グロテスクで、気味が悪くて、悪趣味であるが、単にそれだけなら一般のホラー映画から受ける印象と大きな違いはない。

 

しかし、この写真集から筆者が受けた感銘は、他の何かに置き換えられないような異様なものであった。

ページをめくる度に体の内側から少しずつ音が消えていくような、

「無」

の境地とでもいった、経験したことのない冷たさが次第に満ちてくる感覚。

小説や映画を通じて感じる死よりも、遥かに静かで、暗い、重い、

「無」

が、心や胸にではなく、に来て、自分自身を保つための中心軸が大幅に揺らぐ、といった体験であった。

 

おそらくそれは、写真から文脈を読み取ることが難しいからではないかと、今になって思う。

原発事故のために、これだけ大量の動物が死体になったのです」

という写真集であれば、そこに意図や目的を読み取り、察知して、模範的な感想を持つことはたやすい。

 

単なる事故死、水死、轢死、焼死、自死、といった分類と地名、人名程度のメモしか残されていない死体写真には、文脈が無い。余りにも無さすぎる。

 

行き場のない「無」が、体の中に蓄積する状態には耐えられない。

 

文脈の無さに耐えられない、無いと苦しいので捏造すら行う、とはおそらく人間一般の特徴ではないだろうか。

言い換えれば「わかりやすい文脈を与えてくれる何か」を喜ぶように人間はできており、「わかりやすい文脈を与えてくれる何か」を精神が食べ続け、脳が情報を処理し続けていないと、人間は死んでしまう。

 

この写真集は、誰にも彼にもお勧めできるという種類の本ではない。

ただこの写真集を通過した後では、安直に人を殺す推理小説やドラマの見え方が少し変わってくるので、そういう効用のようなものは確かにある。

 

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